非現実の世界である舞台を、観客の眼前でリアルに変える力を持つ希有な役者たちが揃った。
このキャストを檻のなかに入れて戦ってもらうだけで十分面白いと思う。
大天才の作品に挑むことは自分にとっても大きな糧になる
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映画と演劇のクロスオーバーが目に見えて盛んになり始めたのは、ここ5年ぐらいのことだろうか。松尾スズキやケラリーノ・サンドロヴィッチなどの演劇人が次々にメガホンを取り、堤幸彦、三池崇、崔洋一などの映画監督が意気揚々と舞台演出に臨んできた。しかも彼らのフットワークは一様に軽く、おののくことなくジャンルの垣根をひょいと飛び越えてくる。自分たちの表現ジャンルにのみ頑なな気位を持ち、世界がタコツボ化していた昔とは明らかに風向きが変わりつつあるのだ。
そんな風に乗り今回、舞台初演出に挑むことになるのが行定勲監督。ただ彼の場合は「普段から映画よりも演劇のほうが良く観る」と言うほどの演劇通で、以前から都内の芝居小屋で監督の姿を見かけることも多かったため、ただ単純に流行に乗って演劇に臨むわけではない。言うなれば「いつか舞台に足を踏み入れてくれるであろう」と期待されていた演劇界進出の大本命が、満を持していま初舞台に乗り込むわけだ。
「舞台を演出するということは僕にとってある種の試練です。やはり映画以前に演劇という表現形態はあると思うので、ずっと演劇好きだった自分としては、そこを通らないわけにはいかないだろうと思っていた。あとは海外、特にヨーロッパの映画監督などを見ていると、映画も演劇もできるという人がわりと多いんですね。ヴィスコンティにしろベルイマンにしろ、彼らは一様に演劇から始まっている。映画も演劇もできる、ということがひとつのあるべき姿として確立されているわけです。で、僕自身も両方のことが理解できたところで初めて、ひとつの強靭な表現につながっていくんじゃないかと思っているので。これは是非、挑戦してみようと思ったわけです」
そんな彼が選んだ舞台処女作はサム・シェパードによる83年初演の翻訳劇『フールフォアラブ』。ヴィム・ヴェンダーズの映画『パリ・テキサス』や『アメリカ、家族のいる風景』の脚本家としても知られるシェパードの劇作術を、行定監督は昔から深く敬愛していたという。
「もちろん一連のヴェンダーズ映画も大好きだし、彼が俳優として出演している映画も好きだった。あとやっぱりアメリカにおいてはオーソン・ウェルズかサム・シェパードか、というぐらいの大天才だと思うので。そのような人の作品に挑むことは、自分にとっても非常に大きな糧になるだろうと思えたんです。それに何より僕自身、シェパードが描く題材、男と女の縮図、ほどけない愚かな物語、というテーマにすごく作家として影響を受けているんですね。彼の描く男と女のあり方は、とても自然に自分のなかに受け入れることができるんです」
分からないからこそ人間は面白い
『GO』『きょうのできごと a day on the planet』『春の雪』など、若者の息吹を感じさせる青春物語を多く題材に選んできた行定監督。そんな彼が、地の果ての寂れたモーテルで繰り返される15年来の腐れ縁男女の疲れきった関係性――愛と憎悪、誘惑と反駁、衝動と自戒の物語、に惹かれるとは少し驚きだ。
「確かに僕の作品の多くは青春映画なんだけども、この『フールフォアラブ』と同じように、一貫して男がダメで女が強いんですね(笑)。あと僕は完璧に設計されたハリウッド映画のようなものよりも、話の流れでだんだんと物語が脱線していくような迂回的な作品が好きで。そういった意味では本作は、僕の本質に近いものなんです。この物語だって基本的にはお互いに"アイ・ラブ・ユー"って言いたいだけなのに、なんでか話してるうちに"お前なんかどうでもいい"という感じになってきて、感情の収拾がつかなくなる話なわけでね(笑)。僕はそうした迂回した物語にこそ人間のリアルさが浮き出てくるように思えるんです」
迂回的な物語のリアルさ。それを監督は次のように噛み砕いて説明してくれた。
「例えば、ある喫茶店で男が女を口説こうとしているとする。だけど、だんだん話しているうちに会話が脱線していって、困り果てた男が本当に唐突に"結果さぁ〜、俺とホテル行かない?"と口走ってしまう、その間抜けさ(笑)。そこにこそ、人間のリアルな面白さがあると僕は思うんです。いまヒットしているある種の日本映画のように、段取りよく構築していって結論を落とす、なんて計算はリアルな世界ではあり得ないことですよ。しかし現実は先が読める映画の方が受け入れられやすくなっている。でもそんな分かりきったものを観てどうするんですか?分からないからこそ人間は面白いんです」
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話はその後、分かりきった答しか教えない教育の弊害や、分かりやすい思考法しか持ち合わせない若者の問題に及んでいったが、とにかく行定監督は、感情の会話の思考の、予定調和を好まないわけだ。安易な意見に身を任せず「自分の頭で考えてみろ」と叫ぶのだ。そしてそれは彼が日々、舞台を観劇していても思うことだと言う。
「キャストが演出家を盲目的に信じてるような舞台にたまに出会うと、すごく気持ち悪くなるんです。そこまで演出家を信用するなと。ちゃんと自分の頭で疑問を持って舞台上で生きろ、と思うわけです。だって本来は演出家と役者の関係って、そういう対等な状態にあるべきですしね。そういう意味では、このあいだ僕がイギリスで観て来た何本かの舞台の役者たちは、本当にプロフェッショナルでしたよ。それに単純にちょっとショックなほど…、上手かった。ただそこで役者ふたりが板付きでしゃべってるだけなんですよ。なのに彼ら自身がきちんと考えて役として生きているから、退屈しないし場がもつんです。すごく自然にその場で呼吸してるんですよね。ほら日本の芝居ってわりと、自分のキャラクターを観客に押し付けるじゃないですか。だけどイギリスでは、そこで演じてる役者たちが、そのままのトーンで家に帰ってしまうんじゃないか、と思えるぐらいリアルだったんです。そういう段取り芝居じゃない、予定調和な芝居じゃないリアルさが、僕は好きなんです」
となると今回の初舞台も、映画監督ならではの"リアル"に対する視線を生かした、スタイリッシュで自然体な作風になるのだろうか。
「いや、これはある意味、演劇っぽくやりますよ(笑)。というのも僕には尊敬する演劇人がいっぱいいるわけです。演出家を囲んでみんなで演劇論を戦わせる図式に気持ち悪さを感じる反面、それを羨ましく思う自分もいるわけです。だからそうしたある種の熱さは取り入れていきたいですし、演劇に敬意を持って臨みたい。まあリアルという意味では…、もうこの役者陣が揃った時点で僕は大丈夫だと思っています。彼らは非現実の世界である舞台を、観客の眼前でリアルに変える力を持つ希有な役者たちなので、僕としてはもうこのキャストを檻のなかに入れて戦ってもらうだけで十分面白いと思う。そもそも、これは男女の戦いの物語でもあるわけだしね。で、その獣同士の戦いを僕が猛獣使いとして傍観するわけだけど、あるときその猛獣使いが猛獣に食われちゃって(笑)、動物たちが檻から出て暴走する…。そうした状態を頭で理解するのではなく"体感"してもらえれば面白いんじゃないかな」
複雑で深遠で愚かしい男女のぶつかり合い。安っぽい涙や分かりやすい感動に飽き足らない成熟した見巧者にこそ、足を運んでもらいたい舞台だ。 |